3度目のスタートまで

2005年、一冊の雑誌を読んでYASUDAの倒産(正確には自己破産)を知った。
その特集記事はYASUDAの歴史を事細かに記すと共に、おのずと日本サッカーの戦前からの流れを追った、詳細な取材に基づく秀逸なものだった。
そして思った、(YASUDAの倒産は)自分たちのせいではないのか?

僕は中学・高校とサッカー部に入っていた。
中学1年の時は先輩の"睨み"が怖くてスパイクを履けなかったが、2年になって"許可"が出て友人達と勇んでスパイクを買いに行った。
プラティニ/ラウドルップ・モデルのパトリック、マラドーナのプーマ、そして王道アディダスに目が行った。どれも眩しかった。
サッカーを始めて1年間、夢にまで見たスパイクだ。店のオヤジは「強いチームはカッコじゃなくて、足に合うYASUDAとかを選ぶよ」と執拗に薦めてくる。
でも、全員中学からサッカーを始めた弱小チームの僕らは、こぞってなけなしの金を海外ブランドのスパイクに変えた。僕はPUMAを選んだ。
それはもう20年前のありふれたサッカー部員の青春の一コマだったと思う。しかし、店のオヤジは正しかった。
高校生になってようやく自分の足はどうにも幅が広くて海外ものはフィットしないと分かり、YASUDAとアシックスに切り替えた。

それから数年後、Jリーグのスタートにより、サッカーが世の中で躍進した。
それまでの日本サッカー的な"イナタイ"とでも形容できる様なものは、全て無かったかのように文化は作られていった。
何語か分からないチームの名前。観に行っただけでもサポーター。昨日までグラウンドと呼ばれていたピッチ。
理事長はチェアマンで守備的ハーフはボランチで様々なメーカーが日本サッカーに参入してきた。
代表の試合のチケットは徹夜で並んだり、コネを使わなければ入手できなくなっていた。
混むのは高校選手権の決勝とトヨタ・カップだけだと体で知っていたサッカー部出身の人間からすれば、驚き以外の何ものでもなかった。
そして、猛烈な違和感と疎外感を覚えた。

更にそこから約15年後。その記事を読んだ。あの時の違和感と疎外感が甦ってきた。
日本のサッカーはこの15年で突如、発展・繁栄したのではない。それ以前に、俗に言われる「冬の時代」に、熱心にボールを追い続けていたプレイヤー、
メーカー、関係者たちによって脈々と築かれた歴史の上になりたっているということを、大きなお世話ながら皆に知ってもらいたくなった。
その思いにYASUDAがガッチリと一致した。

すぐに連絡を取った。まずは安田氏が会長を務める東京都サッカー協会に連絡を入れた。
すると、安田会長から2002年の自己破産後、一人で審判用具のみを製造・販売することでYASUDAの暖簾を守り続けている斎藤さんを紹介してもらった。
そして今の自分にできること「自分が企画しているCDのノベルティとしてYASUDAのジャージを制作して欲しい」旨を出会って5分で伝え、あとは斎藤さんに前述してきた内容を吐き出した。斎藤さんはそんな僕を見て笑っていた。

ノベルティ・ジャージはYASUDAが2002年まで発注を出していた工場で製造された。 奇跡的に残っていたタグ(クビの後ろについているアレ)まで取り付けられていた。僕は勇んでそれを持って自分の企画したCDをプロモーションしに、ラジオ局や新聞社へ足を運んだ。
いきなり渡す様なことはせず、まずは世間話に花を咲かせ、相手がサッカー経験だと分かった時に、切り札として差し出した。効果は絶大だった。
誰もが日本代表の試合を語る時代に、YASUDAを知ていることは紛れもなく「ミーハーではない、元プレイヤー」の証であり、その場でなんとも言えない連帯感が生まれ、それにはラジオ局で会った多くの芸能人の方も含まれている。皆、懐かしいそうに学生時代を振り返る。
そして、YASUDAがもう無いということを告げると、皆が皆驚いた表情を浮かべ、「残念だね」「寂しいね」という言葉を続けた。

ジャージはその後、更に有効活用しようということで、商品告知の見返りに新聞紙上でプレゼントを行った。
そして、その反響を得て僕は斎藤さんに再び連絡を取り、無責任に思いを告げた。

「斎藤さん、YASUDAはやりようによってはまだイケるんじゃないですかね?」
酒を飲んでいた自分が軽口を叩いてしまったことを今では反省しているが、その直感は外れてないと当然ながら今でも思っている。
そんな酔っ払いの投げかけに、嫌な顔をせず斎藤さんはボソっと「もう一回、YASUDAでスパイクを発売するのが夢なんだ」と言ってくれた。
そして、冒頭で書いた"(YASUDAの自己破産はカッコばっかりで足に合わないスパイクを選んでいた愚かな)自分たちのせいではないのか?"という思いが再び込み上げてきた。

そこから、色々と奔走したつもりだ。先述したジャージをノーギャラで請け負ってくれたデザイナー、製造を担当してくれた工場の担当者、スポーツマーケティングに詳しい会社の先輩、学生時代に一緒にサッカーをやった新聞記者の友人。誰もが励ましてくれ、何か事が起こった際には応援すると背中を押してくれた。そしてYASUDAの復活を願ってくれた。

斎藤さんには僕が勝手にやるというより、一緒に進められませんかね?と相談してみた。斎藤さんは僕の人生のことまで気遣いながら、少しずつ進めてみようと賛成してくれた。 足りないのは軍資金となる僕の貯金と日夜忙殺されて削られている時間だけだった。 本当に少しずつ亀の歩みよりも遅く、アイデアを練り、何をすれば良いかを考えて行った。その頃には、友人の嫁が暇を持て余しているからと発送の作業をかってでてくれることになっていた。

そんな折、会社からベンチャー企画の募集を目にした。レコード会社の社内公募に、この案件が通るとは正直思えなかった。
だから斉藤さんにも相談せずに企画書を書 き上げ出したままにしておいた。

それが通った。社内の有志を募りプロジェクトとして年明け(2007年1月)からスタートすることになったのだ。

慌てて斉藤さんのところに相談に行った。
反応は、「信じられないけど本当にソニーがやるの?」といったところだったが、いつもと同じ様にニッコリと笑って賛成してくれた。

今度は、社内を奔走した。プロジェクトには相談に乗ってもらっていた先輩に入ってもらい、売れっ子のアート・ディレクターや若くてやる気のあるマーケティング担当、かつてスポーツ・ブランドの制作・販売を担当した経験を持つ人間、随一のサッカー狂で活力に満ちた営業マンなどが集った。最後にはノーギャラのデザイナーも外部スタッフとして入ってもらい、更に現在アパレル・ブランドを切り盛りしている業界に精通するコーディネーターまで紹介してもらい陣容が整った。プロジェクトはまさに波紋の様に徐々に輪が広がっていった。

そして、この秋いよいよスタートする。当面はジャージを中心としてサッカー・ウェアの販売から始める。

斉藤さんと出会ってから、もう2年半になる。これからも「YASUDAとして間違っていないか?」を常に問いかけていくつもりだ。誰かの鼻をあかすつもりも無ければ、華やかな海外のメーカーにケチをつけるつもりもない。
ただ、日本サッカーと共に脈々と歴史を築いてきた老舗が、当たり前のようにプレイヤーのそばにあり、当たり前の様に愛用してもらえたらと思う。

いつかYASUDAの代名詞であるスパイクの発売を目指して。
夢は目標に変った。あとは笛が鳴るのを待つだけだ。

YASUDAプロジェクト
プロジェクト・リーダー 佐藤信幸