PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

審判用品でリスタート

 クリックスヤスダの倒産は、日本のサッカー界に限ってみても、さほど大きな影響を及ぼさなかったのかもしれない。だが幾人かのサッカーマンにとっては、抜き差しならない重大な問題だった。

 小川佳純は中学生の頃からクリックスのスパイクを愛用していた。人より足幅が広く土踏まずも低めであるため、クリックス以外の製品を履くと足が痛くなってしまうのだ。だから市立船橋高校に進んでからも学校近くのサッカーショップでずっとクリックスを買い続けていた。高3の春のある日、彼がその店に顔を出すと店長に
「クリックスが倒産したんだって。在庫があるだけ押さえておこうか?」
 と告げられた。青地に白のラインが入った市船カラーの〈ブラジリアン〉が小川のお気に入りだった。彼のサイズだと3足だけ残っているという。迷わず全て買い取った。1年間、大切に履いた。迎えた2003年1月13日の高校選手権決勝。国見高との息詰まる接戦に決着をつけたのは小川の青いスパイクから放たれた、自身でも
〈これまでで一番の当たり〉
 と感じたミドルシュートだった。2足を履き潰した後の、最後の1足だった。

 小川は現在、明治大学サッカー部に在籍中だ。クリックスになるべく形の似たスパイクを、といろいろ試した結果、ある国産メーカーのものを使用している。高校時代履いていた〈ブラジリアン〉と同じく、カンガルー革のアッパーを持つ。でも物足りない。フィット感が違う。選手権決勝を共に戦ったという思い入れも含め、
〈クリックスの方がよかった〉
 と感じずにはいられない。あの最後の青いスパイクは、今でも小川の自宅の部屋に飾ってある。

 クリックスを新しい解釈で再生させようとしていた原宿のスポーツショップ『日本人』にとっても、倒産のニュースは大打撃だった。『日本人』はオリジナルデザインのスポーツウェアが主力商品。その一方、デザイナー兼店長で、帝京高サッカー部OBでもある星野浩之はクリックス(三十代の星野にはむしろ『ヤスダ』の方がしっくりくる)、ヤンガーといったマイナーな国産サッカーブランドに別注をかけたウェアにも力を入れていた。

 自分がかつて身につけた思い出のブランド。今となっては時流に置いていかれているところも、いとおしい。もとより、品質に問題はない。往年のデザインにちょっとしたひねりを加えることで若い層には新鮮さを、実際着用した世代には懐かしさを感じさせつつ、新しいかっこよさを提示しようとしていたのである。皆が興味を示すアディダス、ナイキ、プーマでは面白味がない。

〈人がその名前を聞いてくすっと笑うようなブランドこそ、自分が別のイメージ、価値観を付加してビジネスにするチャンスがある〉

 と星野は踏んでいた。その鉱脈を、ヤスダやヤンガーの中に見つけていたのだ。古いサッカー雑誌からインスピレーションを得て、あえて綿100パーセントで作ったゲームシャツは好評で売れ行きも良かった。小回りが利くクリックスやヤンガーは、星野の細かい注文にも応えることができたのである。この成果に気を良くし
〈まだまだ行ける。これまでとは別のブランドイメージを再生できる〉
 と更なる一手、例えば今度はシューズの別注を考えていた矢先、クリックスは消えた。

 このところ国産ブランドのアシックスまでが、復古調の商品を展開し始めている。だが『日本人』ではすでに数年前から試みていたことなのだ。その貴重なパートナーのひとつを失ってしまったことが、星野には残念でならない。

 修理を通して、クリックスのスパイクに敬意を払ってきた人物もいる。大阪狭山市にあるミクニスポーツは全国でも珍しい、自店でソール貼り替えに至るまでのスパイク修理を手がけるサッカーショップである。同店の修理担当者、西野努はクリックスのスパイクに惚れ込んでいた。

 革や縫製や接着剤の質はもちろんのこと。

 交換のためソールを剥がしてみると、ソールとの接着部にまで巻き込んであるアッパーの「マチ」が、クリックスの場合は1.5センチもあった。他のメーカーはせいぜい1センチ前後である。このマチの幅が大きいほどアッパーとソールの一体感が増すが、アッパーにしわがよりやすくなるため加工が難しい。革をより多く使うことになるわけだから、コストもかかる。なのにクリックスは、同じ品質の他社製品と比べて安価だった。同じ品質、というのも正しい表現ではないかもしれない。同じように見えてもクリックスはさらにシュータン(ベロ)までカンガルー革で、ブランド名を刺繍で入れているというふうに、細かなところにまで手間がかかっていたのである。

 靴の背骨ともいうべきシャンク(中底)も、クリックスは上質なものを使っていた。このシャンクの復元力(カエリ)によって、足にかかる負担が軽減される。ところがカエリのいい上質なシャンクは、重い。最近の軽量を謳ったスパイクはソールの幅を削ったりシャンクを薄くしたりして、グラム単位の減量を行っている。そうすると当然、疲れやすいスパイクとなる。壊れやすくもなる。プロが芝の上で数試合履くだけなら別だが、日本の固い土のグラウンドで、アマチュアプレイヤーが使うようにはできていないのだ。

 修理の際に必要となってくるスパイクの構成パーツは、メーカーから仕入れることになる。だがメーカーにとっては利幅の薄いパーツより、まるごと新しいスパイクを買わせた方が儲けになる。修理して履いてもらうという発想が薄いから態勢も整っておらず、パーツを発注してもすぐに届くことは少なかった。そんな中、クリックスだけがパーツ供給にも協力的だった。

 ミクニスポーツにおいてクリックスのスパイクは、他のメーカーのものとは売り方が違っていた。店のスタッフの方から客に薦め、客も試し履きをした上で納得をして買っていく商品だったのだ。西野の目からは、他のメーカーは
〈より売れるものを作ろう〉
としているように見え、反対にクリックスは
〈より良いものを作ろう〉
としているように見えた。惜しい会社をなくしてしまった、他に替わるメーカーはない、と西野は残念がる。

 2003年5月6日、安田の創業者、安田重春が92年の生涯を閉じた。前年にクリックスが破産宣告を受けてから、ほぼ1年後に当たる。告別式には旧安田、旧クリックスの社員のみならず、日本サッカー界の要人も駆けつけた。

 それでもヤスダの灯は、まだ消えてはいない。以前のような大きな灯ではないが、日本で唯一のサッカー審判用品専門メーカーとして「ヤスダ」の名は存続しているのである。クリックス時代から充実していた審判用品一本に絞り、ニッチマーケットを狙ったメーカーとして生まれ変わったのだ。88年、社名変更した時が一度目とすれば、これが二度目の再出発である。審判ウェアやアシスタントフラッグ、ホイッスル(野田鶴声社製も、もちろんある)、イエロー/レッドカード、記録カード、トスコインなどが取り扱い商品だ。『安田』、『クリックス』の両時代に渡って在籍し、自身2級審判員であることから実体験を生かした審判グッズを商品化してきた齋藤圭太が新生ヤスダを取り仕切っている。安田一男は今回も、ヤスダのブランド名(『クリックスヤスダ』は廃し、オリジナルのブランド名に戻した)とロゴマークの使用権を無償で新会社に貸与した。

 小さな規模で始めた新会社だが、すでに全国の小売店から発注や問い合わせや激励の連絡が数多く寄せられている。ヤスダの復活を望む声は根強かったのだ。当面はレフェリー達に昔と変わらぬ実用本位の製品を供給することで日本サッカー界への貢献を続けていくが、近い将来にはスパイクの再生産も視野に入れている。以前クリックスのスパイクを作っていた工場には、今でも専用の機械が残されているのだ。

 あの2本線の〈エクセルライン〉が戻ってくる日が、もしかしたら……。