PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

2002年の破産宣告

日韓共催のワールドカップが迫ってきていた。

 海外メーカーの攻勢はますます激しくなった。さらにサッカーに本格参入してきたミズノにもあっという間に抜き去られ、とうとう国産メーカーでも3番手になっていた。

「安田の時代は『店になくてはならない』スパイクだったけど、近頃は『あっても邪魔にならないけどなくても困らない』ってスパイクになっちゃったね」
 クリックスの営業マンがあるスポーツショップを訪れた際、店員の吐いた言葉だ。

 再浮上のきっかけを掴むためどうすればよいのかは相変わらず誰もわからなかったが、それでも会社中に
〈伝統ある安田の流れをくむサッカー専門メーカーとして、自国で開かれるワールドカップを指をくわえて見ていていいのか〉
 という意気込みだけは満ち溢れていた。ワールドカップは大きなビジネスチャンスなのだ。

 だからといって海外のナショナルチームにユニフォームを供給できるわけでもない。スパイク使用契約を結ぼうにも海外有名選手はおろか、日本代表選手にさえ入り込む余地はない。それでもなんとか、ワールドカップと関わりを持つ商品でヒットを飛ばせないか……。

 焦ったクリックス首脳陣が出した答えが、オフィシャル・ライセンスグッズだった。

 大会マークや大会マスコットの入った商品を売り出そうと考えたのだ。確かに普段サッカーに興味を持たない層や外国人サポーターまでが購入すれば、なかなかの収益になる。

 事実、FIFAとの間に入った広告代理店主催の説明会では、いかにも濡れ手に粟の儲けが転がり込むような煽り方をして参加企業を募った。

「大会マークが入ったグッズは自国開催の記念にと皆がこぞって買うでしょう」
「ニック、アトー、キャズの大会マスコットをアニメ化してテレビにどんどん登場させ、日本中の人気者にします」

 ライセンスグッズには多くの種類があった。できることならTシャツやボールなど、直接サッカーに関係のある商品を手がけたかったが、クリックスが参入した頃にはもう大メーカーに押さえられていた。それならと気軽に購入できるキーホルダーや携帯ストラップの類に目を転じたが、これもすでに他社が権利を獲得していた。やむなくクリックスはマグカップやビニールのペンケース、絵葉書などを選ぶことにした。デザインや色にバリエーションを持たせた商品を、業者に大量に作らせた。

 そうして出来上がった商品を置いてもらうため、クリックスの社員は総出でこれまで取り引きのなかった百貨店やスーパーマーケット、コンビニエンスストア、ホテル、JRの駅、ギフトショップなどを回って販路を開拓した。慣れぬ作業だったが、相手方の担当者がサッカー経験者だったりすると
「へえ、あの安田が……」
 と思わぬところから商談が成立する場合もあった。

 大量に作ったライセンスグッズを速やかに取扱店まで届けるため、大掛かりな物流システムも整えた。商品保管のための倉庫も借りた。これらのために数千万円の借財をした。

 できるだけの準備はした。あとはワールドカップ前の盛り上がりを待つだけだ。そしてあの国中躁状態のような2002年が、来た。

 だがクリックスのライセンス商品は、全く動かなかった。最初は
〈組み合わせ抽選会を契機に商品が動くだろう〉
 と期待していた。しかし動かなかった。次に
〈2002年を迎えたら……〉
 と見守った。それでも売れ行きは上昇しなかった。結局、商品が多少はけたのは大会直前の1カ月と大会期間中の1カ月のみだった。

 考えれば当然のことだ。ブームに躍らされるお調子者相手とはいえ、彼らが欲しがるのは代表ユニフォームやTシャツやタオルまでだった。特に必要のないマグカップやペンケースまで浮かれて買うほど愚かではなかった。しかもそこには、中途半端な造形のマスコットが3匹も印刷されているのだ。誰にも祝福されずに生まれたニック、アトー、キャズの3匹はかわいそうにFIFAからも見捨てられたのか、当初の計画通りの充分な媒体露出をさせてもらえなかった。だから当然のごとく大会前にはすでに忘れ去られていた。

 クリックスはこのライセンスグッズ・ビジネスに自社の命運をかけていた。畑違いのマグカップやペンケースを2001年末から2002年にかけての、社のメイン商品としていたのだ。莫大な額の保証料を前金でFIFAに支払った上、業者に商品を大量注文していた。発注した商品に対しては、約束の期日までに代金を支払わねばならない。だが商品は売れない。とにかく現金化するためには値引き販売という手があるが、契約によって大会開幕前のディスカウントは禁じられていた。流通システム構築のために借りた資金も返済しなけれならない。八方ふさがりだった。資金繰りに行き詰まったクリックスはついに2002年4月30日、自己破産を申請した——。

 あのまま愚直にサッカー用品だけを作り続けていても、シェアを伸ばせる可能性は限りなく薄かっただろう。だが少なくとも、中堅メーカーとして身の丈の範囲でまだまだ商いを続けられたはずだった。しかしクリックスはイチかバチかの勝負に無理に打って出て、最悪の結果を招いてしまった。ライセンスビジネスの厳しさに対して、あまりにナイーブすぎたのだ。しかもその勝負に出る際の、武器選択のピントのずれ加減……終焉の時にまで、「目端がきく」という言葉とは縁のないメーカーだった。

 5月8日、クリックスは東京地裁から破産宣告を受ける。それでもクリックスの元社員達には、まだやらねばならない仕事があった。倒産後の残務整理。そして最後の納品。届け先はJAWOC、納入品は審判用のホイッスルだった。

 クリックスは、ライセンスグッズ発売と並ぶもうひとつのワールドカッププロジェクトを計画していた。日韓大会用の特注ホイッスルを作り、JAWOCを通して試合を裁く全審判に配ろうというものだ。サッカー専門メーカーとして何とか大会に直接関与したいと、各方面に働きかけた結果だった。そのホイッスルの製造は、世界的評価を得ている野田鶴声社が請け負った。

 野田鶴声社に発注し、金型から起こしたクリックスオリジナルホイッスルは以前からの取り扱い商品だった。定評ある野田鶴声社の製品をさらに改良し、口にくわえ易く、より澄んだ音がするようにしたものだった。クリックスはそのホイッスルを2個ずつ、72人の全審判に用意した。ひとつには通常のクローム多層メッキを、もうひとつには純金メッキを施し、各審判の名前を彫りこんだプレートとともに特製の木箱に入れた。

 会社倒産後の在庫は、差押え品として債権者の手に渡っても文句は言えない。だがこれだけは譲れなかった。歴史あるサッカー専門メーカーとしての最後の意地がある。元社員自らがホイッスルの入った段ボール箱を担ぎ、大会直前、秘密裡にJAWOCへ届けた。このホイッスルは名目上、JAWOCから各審判に対するギフトであり、審判達に使用義務はなかった。だが自分の使用道具に対する厳しい目を持つ彼らのうちの数人は、自分で準備してきたものをやめてまでクリックスのホイッスルを選んだ。この笛が実際に使用された試合では広がりを持った独特の音色が響き、たとえテレビ中継であっても元クリックス社員の耳にはそれと聞き分けられたのだった。