PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

ドゥンガとのアドバイザリー契約

 95年からは久しぶりにプロ選手とのアドバイザリー契約を復活させた。柏の柱谷幸一。そして磐田のドゥンガ、アトレチコ・ミネイロのタファレル。セレソンを一気に二人も抱えることになったのだ。彼らは以前のジャイルジーニョと違い、契約というものの意味をよく理解していた。ドゥンガは、海外での代表試合ではワールドワイド契約を結んでいたリーボックの着用義務があったが、日本国内では必ずクリックスのスパイクを履いた。彼のリーボックとの契約は『常に最新モデルを履く』というものであったため、履きなれたスパイクを使用したいドゥンガにとってはクリックスのスパイクの方が足なじみが良かった。彼とクリックスのスタッフとの間で足型、縫製等についてとことんまで意見交換をした末にできあがったものだ。ぴったりフィットするのは当たり前だった。Jリーグの他の外国人選手は、世界的に有名なドゥンガが見たこともないラインのスパイクを履いているのを訝り
「それはなんていうメーカーなの」
 とよく聞いてきた。するとドゥンガは
「日本で一番歴史のあるスパイクメーカーだ。君達は知らないブランドかもしれない。でも素晴らしいスパイクを作っているのだから、私が履いていても何の不思議もないよ」
 と返すのだった。アドバイザリー契約に当たってドゥンガがクリックス本社を訪問した際、旧「安田」創業者の安田重春が工場を案内し、創業当時のスパイクの作り方や会社の歴史を熱心に説明したことがある。その時の記憶が、ドゥンガの脳裏にいつまでも焼きついていたのである。ドゥンガ使用モデルであり、彼自身が名付け親となった〈ガウチョ〉シリーズのスパイクは品質とコストパフォーマンスの高さで、クリックスの稼ぎ頭となった。

クリックスはスポット契約として、ガンバ大阪とのプレシーズンマッチのために来日したフィオレンティーナの若手選手達に1試合限定でスパイクを履かせたり、北海道へトレーニングキャンプに訪れたラツィオに練習用のボールを提供したり、フィレンツェで行われたチャリティーマッチで『ワールドスターズ』チームのウェア、ボールサプライヤーになったりもした。96年にはポルトガル代表のサ・ピントと契約、クリックスのスパイクは欧州選手権の舞台にも登場した。

 それ以外にも、他メーカーが手薄だったレフェリー用品の充実を図り、全国の審判員達の好評を博した。Jリーグ試合のコーナーフラッグやアシスタントフラッグを、リーグ発足時から提供したりもした(現在はモルテンが担当)。

 だがどの策もオリジナリティーに乏しいか、さもなくば短期的で統一性がなかった。従って、失ったシェアを回復できるほどの効力を持ち得なかった。

 戦略性——クリックスに決定的に欠けていたものが、これである。

 はじめにブランドイメージの構築ありき。クールな広告、多くの一流選手との契約、デザイン先行の製品……。80年代後半からはっきりと、このプロモーション方法を採用できるかどうかが、スポーツ用品メーカー生き残りの分水嶺となっていた。しかしもちろん、このようなことができるのは資本力のある国際的メーカーに限られた。質の高いものを良心的な価格で提供するだけのドメスティック・ブランドは、そのあおりを受けて世界中で駆逐されていった。

 スポーツ用品業界のこのような変貌を見るに及んで、おっとりしていたクリックスの社員達もようやく目が覚めた。最盛期より減ったシェアが、さらにどんどんと奪われていくのだ。けれどそれをどう押しとどめるかの術を彼らは持たなかった。

 資金力がないことも足かせではあったが、なにより斬新なクリックスの価値・意義を創出せねばという意識が芽生えないのだから、打開策など出てくるはずもなかった。旧「安田」時代から実直を旨とし、競技者志向の高さを誇りとしてきた会社だ。

〈限られた資金でもクリックスの名を効果的に高める方法はある〉
 と考え、叫び、実行する切れ者が現れなかったのも仕方のないところではある。