PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

新会社クリックスヤスダ

〈周回遅れにされた先頭グループの後ろを、なんとか食らいついて走っている……〉

 安田一男は、80年代に入ってからの自社スパイクの競争力を陸上トラック競技に例えるなら、そんな具合だと思うようになっていた。

 海外勢に伍して競り合っているように見えても、相手が本気になって揺さぶりをかけてくれば、いともたやすく脱落するであろうことは明白だ。

 大メーカーは、毎年多数の新製品を発表し、消費者の購買意欲を刺激した。新製品を発表するには多大な開発費がかかる上、製造のための新しい金型を起こす必要がある。金型の作製にも、もちろん莫大な資金が投下される。もともと企業規模が大きい上、マーケットが全世界に存在する彼らだからこそ、それを毎年繰り返すことができた。たった1年しか使わない金型でも、生産量が多いため十分に償却が可能だったのだ。

 日本市場だけが頼りの、安田のような会社ではそうはいかない。一度金型を作ったら、数年作りつづけないと元が取れないのだ。すると何年も同じモデルを継続販売する、目新しさに乏しいから消費者の食指が動かない、売上が伸びないため新製品開発に予算が回せない、の悪循環に陥ってしまうのである。

 実のところサッカースパイクとは、そう年々画期的な進化をする商品ではない。新製品といえども目先を変えただけの、モデルチェンジの為のモデルチェンジが繰り返されてきたのだ。なんとなればスパイク、ことに固定式のそれは、60年代末から70年代初頭の期間でほぼ完成の域に達しているのである。その後今日まで、ボールコンタクト部にゴムの「ひれ」を付けたり、中敷の踵に衝撃吸収素材を入れて各社独自のニックネームをつけたりと多少の目先の変化はあっても、本質的なブレークスルーは起こっていない。だからこそ、約20年前に発表されたモデルを愛用する選手が今でも後を絶たないのである。そしてそれらの機種は、ベッケンバウアーやネッツァーの時代のものにほんのわずかな改良を加えたに過ぎないのだ。

 それを知った上で、いやむしろ知っているからこそ、大メーカーは不毛な争いを承知で、短期的なカンフル剤として次々と新製品を投入する。

〈そんな競争にはもうついていけない、手を引くなら今だ〉

 専務の肩書きながら、長く会社経営の舵取りを社長の父・重春から任されてきた安田一男は、ついに会社をたたむ決心をした。88年のことである。アディダスやプーマはいうに及ばず、この頃はじりじりとシェアを落として、アシックスにも後塵を拝していた。

 幸い会社には、堅調時に購入した不動産資産もある。この一部を手放せば、社員全員に退職金を払った上、事業を清算できる。(株)安田は今後、残った不動産の管理をなりわいにしようと一男は考えた。

 こうして老舗サッカー用品メーカー『安田』の命脈は尽きた、はずだった。

 しかし事業をたたむ事を一男が会社内や取引先に伝えると、安田への納入業者や社員の代表が一男のもとへ直談判にやってきた。歴史ある『安田』の灯を消すのはあまりに惜しい、自分達の手で何とか存続させたいと言うのである。そこまで働きかけてきた者の願いを聞き入れないわけにはいかない。一男は新会社に、(株)安田が持っていた「クリエイター」「イレブンスターズ」などの製品名や2本線のキャラクターラインを使用する権利を、無償で貸し与えた。閉鎖した自社製靴工場内の生産設備や金型、足型は、新会社の外注工場に惜しげもなく譲った。

 旧安田の社員は大部分が新会社に残った。熟練職人も以前の工場の生産設備を移設した外注工場に移籍し、以前と変わらぬ品質のスパイクを作れる体制が整った。全盛期よりシェアを落としたとはいえ、広範な販売網はまだ健在だった。

 当初、新会社は心機一転『クリックス』の名で再出発を図る予定だった。安田のスパイクのシリーズ名である〈クリエイター〉から頭の2文字を取り、それに当時のCI(コーポレート・アイデンティティー=日本においては、「社名変更運動」程度の意)ブームでなぜか新社名の語尾に多く採用された『ックス』を合わせたという、世情を率直に反映させた命名だった。けれども昔の安田を知る社員達にとって、この新社名だけではどうにも収まりが悪く感じられた。はやりのカタカナ名前もいいが、連綿と続いたブランド名を自分たちの手で消すのは寂しさがあった。それに消費者や販売店、流通業者の間では、新会社が営業や製品を引き継いだと言っても、旧来の「安田」の方が通りがいいのは明らかだった。

 結局、また一男に使用許可を得て、新会社名は『クリックスヤスダ』で落ち着いた。

 クリックスヤスダ(以下クリックス)は前身同様、さほど大きな規模の企業ではなかったから新製品開発力は貧弱だった。既存の技術の中でできる限りの作りこみをしていくのが精一杯だ。それでも何とか市場の動向に遅れまいと定番商品を作り続けるかたわら、海外メーカー発の流行を1年、2年遅れで取り入れようとした。固定式インジェクションソールに二種類(二色)の素材を使ったり、取り替え式のソールに赤や黄のカラフルなプレートを貼り付けたり、キャラクターラインを別色で縁取ったり、ウェアに光沢素材を採用したり……。またクリックスとなった初年度から、生産ロットの小ささを生かし、一足単位で対応するスパイクのカラーオーダーを受け付けていた。これは当時、どのメーカーでもやっていなかったことだ。