PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

エクセルライン時代

 78(昭和53)年、新たな安田オリジナルラインが生まれた。カーブを描いた2本線。前進をイメージして、デザインされた。最初にこのラインが採用されたシューズの名が〈エクセル78〉であったことから、このラインは社内的に〈エクセルライン〉と呼ばれた。この初登場の年のカタログには3本ライン、プーマライン、ジャイールライン、そしてエクセルラインと4種ものキャラクターラインが混在していて、誠に壮観である。

 安田の靴はいつの時代も、値段の割に品質が高いことで定評を得ていた。80年代初頭には、シューズだけで一日1500〜2000万円の売上げがあった。当時一番のヒットモデルは〈クリエイター〉シリーズの〈YX‐6〉だ。黒地に黄色のエクセルライン。カンガルー革でできていて、ポリウレタンの固定式インジェクションソール。これだけ贅沢に作っていながら、価格はわずか9800円。売れないほうがおかしいというものだ。

 だがJSL、日本代表といった日本のトップレベルでの着用率は、70年代に入るとかなり低下していた。アディダス、プーマはそのステイタス性から相変わらず愛用者が多かった。国産のオニツカもぐんぐんと品質を上げ、しかも広告で高級感を演出するなどしてサッカーでも国内トップメーカーとなるべく攻勢をかけていたから、選手人気は高かった。彼ら実業団選手はメーカーから靴を支給されるので、値段など関係なく、純粋に自分の好みで靴を履くことができた。

 安田はこれに対し、あくまでも自分で金を払ってシューズを買う層に照準を合わせた。質実剛健の職人気質は創業当時からのポリシーであるし、派手なプロモーションをしたくてもサッカー専門メーカーであるから資金力や社員数には限りがあった。

 中でも安田が力を入れたのは、中高生である。まず、パイが大きい。そして彼らは親からもらった金や自分の小遣いでシューズを購入する分、コストパフォーマンスというものを考える。とにかく、うちのシューズを履いてみてほしい、履いてもらえれば絶対に良さはわかってもらえるから——安田の営業マンたちはそんな自信を持っていた。戦前から日本人の足を触りながら、日本人の足に一番合うようにと靴を作り続けてきた会社だ。履き心地やキックの際の感触は一番なのだ……。

 だがその、履いてもらうまでが大変だった。憧れの外国人プレイヤーと同じ靴を履きたい、かっこ良く見える靴が欲しい。有名なブランドがいい。こんな欲求の前では、安田のコストパフォーマンスやフィット感は必ずしも効力を発揮しなかった。サッカー少年・青年の心の中では、いつしか安田はかつてのような『プライドをくすぐる』ブランドではなく、『ちょっと、垢抜けない』ブランドになってきていた。

 安田にとって営業上重視せざるを得ないイベントが、全国高校選手権だった。日本代表や日本リーグの試合よりはるかに人気があった。テレビ中継もある。シューズが画面に映れば、主力ユーザー層である中高生へのアピールも大きい。選手権に出場するような強豪に食い込むため、安田は様々な努力を続けた。

 会社の規模の小ささを生かして、ユニフォームの色に合わせたカラースパイクを提案した。安田のカラースパイク、と言えば多くの人が思い浮かべる青×黄の帝京モデルも、そこから生まれたものだ。

 国体やインターハイの会場にもまめに足を運び、各チームの指導者達と親交を結んだ。部活動では監督・部長の一存でチームスパイクやユニフォームが決定されることが多いのだ。

 選手権常連校のOBを会社に採用して販促活動に当たらせた。母校へ食い込むことはもちろんのこと。強豪校は頻繁に練習試合を行う。その際知り合った相手からも注文が受けられることがあった。

 まだ自社工場が会社の近くにあった頃だから、営業マンは工場で職人の作業ぶりを見たり話を聞いたりするうち、簡単な修理なら自分で行えるようになった。各地の小売店に営業に行った時、たまたま修理のシューズが持ち込まれたりすると、彼らは客の目の前で手早く直してよく感謝されたものだ。それはもちろん、小売店のイメージアップにもつながる。安田の営業マンは店からも重宝がられる存在だった。サッカー部のスパイクやユニフォームのブランド決定に関し、出入りの小売店が影響力を持っているのはよくあることだから、各地の店に食い込んでおくことも大事なのだ。会社の心証を良くしておけば、店の棚の占有率だって高くなる。

 地方代表のチームが大会中に泊まる旅館へ出張販売に出向いた時は、ゴミ類は一切後に残さず、自分達やチームのみならず他の泊り客の靴まで揃えた。帰りがけには旅館の従業員にも「お騒がせしました」と、自社のタオルや小物を渡した。

 彼らは自社のシューズのように、地道さや心配りの細かさを武器にした。いや、それしか頼るものがなかった。

 だから85(昭和60)年に行われた63回大会準決勝の帝京—武南戦は、彼らにとって感無量の光景となった。安田は帝京用には例の青×黄を、武南用には紺×黄のオリジナルモデルを大会用に作成し、納入していた。試合前、担当営業マンがスタンドから双眼鏡で選手達の足元を調べると、国立のピッチに立った22人中の半数が、安田のシューズを履いていたのだ。エナメルコーティングされたカンガルー革が、陽の光を浴びてきらきらと光っていた。

 この頃まで、安田には国産トップメーカーとしての存在感があった。しかしまだまだ、彼らの長い歴史の半分の側面しか描けていないのだ。 後年、クリックスヤスダと社名変更したのはなぜか。ワールドカップイヤーに幕を下ろさねばならなかった直接の原因。日本のプレイヤーは、ヤスダというメーカーをどれほど理解していたのか。ヤスダの靴の真価。戦前からの伝統あるブランドは、完全に消滅してしまったのか……。

 もし機会があれば、いつかそのあたりのことにも触れてみたい。