PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

ジャイールライン時代

 73(昭和48)年8月、安田はメキシコ・ワールドカップでペレとともにブラジル優勝に貢献したドリブルの名手、ジャイルジーニョとアドバイザリー契約を結ぶ。ブランド知名度をさらに高めるための、安田初のプロ契約だった。そして翌74年には、彼をイメージした〈ジャイール〉というシリーズのシューズが発表される。その年のカタログの表紙を飾ったのも、もちろんカナリア色の代表ユニフォームを着た彼の写真だった。

 〈ジャイール〉には、これまた安田初のオリジナル・ラインが奢られていた。初のプロ契約も締結したことだし、いつまでもコピーでもあるまい、との声が社内でも高まったからだ。しかし出来上がってきたのは……「プーマラインが稲妻型になった」としか表現しようのない、何とも奇天烈なデザインだった。この『ジャイールライン』、カタログには彼の「鋭い切れ味のドリブルプレーをイメージした」と書かれているが、誰がどう見てもプーマの亜流感は否めなかった。なにせシュータンに縫い付けられた織りネームまで、プーマのそれに使用されているのと同じ色調のグリーンだったのだから。

 しかもこの〈ジャイール〉、正式に契約書を交わし、日本にジャイルジーニョを呼んで記者会見までしたにもかかわらず、当の本人が履いてくれなかった。同じセレソンでもペレは律儀に世界中で契約メーカーであるプーマを履いているのに、日本をなめていたというのか、単に性格がちゃらんぽらんというのか……どうもジャイルジーニョは、日本限定の小遣い稼ぎ程度にしか考えていなかったようなのである。安田の社員がサッカーマガジンなどに掲載される海外試合の写真を目を凝らして見ても、ジャイルジーニョの足元に稲妻が走っていたことは一度としてなかった。

 これに懲りた安田は、ジャイルジーニョとの契約は75(昭和50)年いっぱいで打ち切る。しかし〈ジャイール〉シリーズは残り、80年まで稲妻ラインのシューズが生産された。

 75年から84(昭和59)年まで、安田には『ダイヤモンド・ウィルス』というシリーズの野球用スパイクも作っていた時期がある。中でも77(昭和52)年、78(昭和53)年は、プロ野球・日本ハムとチーム契約まで結んでいた。そのスパイクというのが、ジャイールラインだったのである。青地に白ラインと、白地に青ラインの二種類が供給された。当時の日ハムには高橋直樹、富田、ミッチェルらがいて、島田誠や柏原はまだ駆け出しの若手。大沢親分の第1期監督時代であった。