PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

2本・3本ライン時代

 60(昭和35)年、体調を崩した重春に代わって長男の一男(現・東京都サッカー協会会長)が勤め先を休職して急場の家業を支えた。早大サッカー部OBでいすゞの社員であった一男は、父の回復後もいすゞには戻らず、そのビジネス感覚を生かして以後安田の経営面を担当するようになる。

 安田が家内制手工業的靴店からサッカーシューズメーカーへと躍進を遂げた転機には、鎌田光夫が関わっている。60年、日本代表は欧州遠征を行った。帰国後、参加選手の一員であった鎌田が
「こんなのがあったよ」
 と、西ドイツ土産の一足のサッカーシューズを安田に持ってきた。ヨーロッパで出回り始めていた、アディダス製ゴム底マルチスタッド・シューズだった。革製のポイントのように交換は効かないが、ゴム底の方が日本の固い土グラウンド上では数倍長持ちすることは明らかだった。

 折りしも経営の指揮をとるようになった一男は
〈今のように一足一足手作りするやり方では、この先商売として成り立っていかない〉
 という不安を抱えて将来を模索していた。そんな時目にしたのが、黒いゴム底である。一男は、職人仕事の良さは残しながら、サッカーシューズを工業製品として量産しよう、と決心した。ゴム底を製造できる工場を説得し、協力を取り付けた。パンプスやハイヒールなど婦人靴の隆盛のおかげで、日本で良質の靴用接着剤が作られるようになったことも、商品化の追い風になった。翌61(昭和36)年から発売された国産初のゴム底サッカーシューズの名は〈DL〉。続いて〈TOKYO〉というモデルも出した。外観は手本にしたアディダスと瓜二つ。DLには黒地に白の2本ラインが、TOKYOには3本ラインが入っていた。これらは爆発的に売れ、問屋からもひっきりなしに大量注文が来るようになった。安田の企業規模は一気に拡大し、サッカーシューズ業界での地位を不動のものにした。

 商標権や製造特許など、日本人のほとんどが気にしていなかった時代である。サッカーシューズのみならず様々な分野の製品が、欧米の一流品を真似して作られていた。今でこそ独創性の象徴のように言われる企業でさえ、臆面もない模倣品を作っていた時期がある。戦後の日本工業はパクリから出発し、それらの製品によって日本人の生活は底上げされていったのだ。

 会社の規模が拡大しても、一男の父・重春のサッカーへの献身ぶりは戦前と変わりがなかった。職人、従業員を束ねる一方、国体などの全国大会が行われるとサッカー会場に赴いてサービスコーナーを出し、スタッド交換やシューズの修理を無料で行っていたのである。自社の靴はもちろん、他社製品でも拒むことはなかった。