PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

ラインなし時代

 安田重春は1932(昭和7)年、21歳で東京・小石川区竹早町、現在の文京区小石川四丁目に『安田靴店』を開業した。どこにでもありそうな、町の靴屋だった。だがこの店は、他店にない特徴を持っていた。上質なサッカーシューズを作ることができたのである。

 重春は独立前、牛込の『サクライ』という靴屋で修業をしていたのだが、そこは紳士靴製造の片手間にサッカーシューズを作っていた。当時スポーツシューズ専門メーカーなどというものはなく、限られた靴屋が特注品として手作りしていたのである。サクライ入社早々からサッカーシューズを担当することになった重春は、近隣大学のサッカー部員が参考にと持ち込んだ外国製品や他店の靴を研究しながら、徐々に自分なりのシューズを完成させていった。

 だから重春が自分の店を構えた時には、彼に付いていた顧客がそのまま移ってきた。早稲田、慶応、立教、旧制中学では五中(現・小石川高校)、高師付属(現・筑波大学付属高校)、暁星などのサッカー部員達である。重春はこれらの学校はもとより、遠くは埼玉、神奈川にまで自転車を飛ばして納品した。効率は悪くても、客と直接顔を合わせ言葉を交わすことで信頼関係を確かなものにしたかったのだ。こうして『安田』は、ますます首都圏の選手の心をつかむようになる。そして彼等が大学に進学したり、教員となったりして地方に散ると、その土地で安田の靴を広め、東京の安田まで注文をしてくるようになった。

 多くの注文が舞い込むようになってからも、重春の靴は進化を続けていた。この頃のスタッドは、多層に重ねた堅い皮を型抜きしたもの。それを革底に釘で打ちつけていた。うるさ型の客は、少しでもダッシュやストップが効くよう、どこにスタッドを配置するかなどをこと細かく指示してきた。まだまだサッカーシューズは、店と客との共同作業の色合いが濃かったのだ。よく店に姿を見せていた旧制東京高校の朝比奈という部員は、年端も行かぬくせに熟練職人の仕事にあれこれと注文をつけていた。その彼は後年、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督となり、世界最高齢の現役指揮者として名を馳せた。

 重春が店を構えてから五年後、日中戦争がはじまり、そのまま日本は第二次世界大戦へと突入する。戦時中の安田靴店は、のちに『ハッシュパピー』を手がける大塚製靴の孫受けとして、海軍特攻隊員の半長靴を作っていた。やがて日本は敗戦。重春の店も空襲で焼失した。だが戦後、バラック建ての店舗を構えるやいなや、今度は復員省や農林省向けの靴の製造・納入に追われる日々が待っていた。それが一段落すると、運動具組合の会員であった安田靴店は国からサッカー、ラグビー、ハンドボールなどの競技用靴を作るよう指示される。とりわけサッカーについては、蹴球協会の常務理事であった宮本能冬が
「サッカーを普及させるには、とにかく用具を豊富にすることだ」
 と統制経済の中、配給品であった原材料を入手する便宜を図ってくれたりした。

 戦後の復興とともに、安田靴店は商品をほぼサッカーシューズ一本に絞る。平和が訪れた日本で、ますますサッカーが普及していくだろうと予測したのだ。53(昭和28)年には店を会社組織にし、名称も「株式会社安田」と改めた。ただ実際は、法的に必要な人数の株主を名義上集めただけであり、まだまだ家内制手工業的な靴屋だった。それでも従来の製造販売店から、作った靴の販売は全国の問屋や小売店を通して行う形態へと軸足を移していった。

 戦前から終戦直後にかけて、日本のサッカーシューズは安田と神戸の『佐藤』が双璧とされた。ただ東京の方が情報が集まりやすく、目の肥えた厳しい客に鍛えられている分、安田の靴の方に軍配を上げる選手が多かった。関西の学生にとって、全日本大学選手権などで東京を訪れた際に安田に立ち寄り憧れのシューズを購入していくのは、大きな楽しみであったのだ。関学のメンバーであった平木隆三(元日本代表、日本代表コーチ)もその一人である。彼は、試合の関係者でも主催者でもない重春が、フィールドのライン引きやコーナーフラッグ立てを買って出る姿を度々目にしていた。商売熱心さを通り越したそのサッカーへの献身ぶりに、平木はいつも頭の下がる思いがした。

 安田のサッカーシューズが日本一と賞されるまでになった原因として、東京で国際試合が行われる機会が多かったことも見逃せない。53年、西ドイツからオッフェンバッハ・キッカーズが来日し、全関学や日本代表と試合を行った。この時重春は日本協会の計らいでキッカーズの選手達の靴を間近に見る機会を得た。堅牢を旨としていた自分の靴と違い、プーマ製のそれは靴底も薄く、アッパーの革も日本製に比べればずいぶん柔らかそうなものが使われていた。また実際に対戦し、キッカーズの選手から靴を譲り受けた平木隆三はその靴を安田に持ち込み、分解してシューズ作りの参考にしてくださいと置いていった。

 重春の見立てに間違いはなく、先進国西ドイツではサッカーシューズは軽く、柔らかくなる傾向にあることは間違いなかった。重春はキッカーズの置き土産をコピーし、〈ドイツ〉と名づけて自社製品のラインナップの中に加えた。

 新製品誕生に一役買った平木であるが、彼は当時の安田の客の中でも、スパイク改良に関する熱心さでは群を抜いていた。後にはくるぶしまでのブーツ型が主流であったアッパーを、海外選手の写真や野球のスパイクを参考にして日本でいち早く短靴型にさせたりと、様々な創意工夫を思いついては安田の職人に注文した。

 50年代まで、安田のサッカーシューズにブランドの目印となるキャラクターラインはなく、こげ茶や黒の無地一色であった。